Top Message技術⼒と品質にこだわった
「新しい⼼地よさ」で
お客様を笑顔にしたい。

河野製紙創業の地、⾼知県は⼟佐和紙の流れを汲む古くから製紙業の盛んな⼟地です。

弊社は、明治25年(1892年)に初代が⼿漉き和紙の⽣産に携わった時を創業として以来、100年以上にわたり、お客様のご満⾜を第⼀に考えて製紙業を続けて参りました。時代とともに技術は進み、⼿から機械へ、そして機械はより⾼速へと変わってきました。そして今や、ティシュ・トイレットペーパーは、必需品として無くてはならない⼤量⽣産・⼤量販売商品になりました。そうした変化の中にあっても弊社の中で決して変わらないことは、1000年にわたって積み重ねられた⼟佐和紙の伝統を受け継ぐ企業として、バランスの良い美しい地合のとれた紙・お客様のお肌に優しい紙を抄く精神です。

その結果として、平成5年(1993年)にデリケートな肌を優しくいたわる世界初の保湿ペーパーを発売することができ、⽇本・アメリカで特許を取得致しました。 現在では、殆どのお店で⾒かけることができるようになりましたのも、ひとえにお客様のおかげです。また、平成23年度(2011年)秋の褒賞において、弊社会⻑が藍綬褒章を受章させていただき、⼤変感激するとともに社員⼀同、⾝の引き締まる思いです。

令和4年(2022年)に創業130年を迎える弊社は、培ってきた伝統と信頼を大切にしながら、今まで以上にお客様から愛される製紙会社として未来に向けて歩むべく、新たなビジョン「次の心地よさを創る」を策定しました。

これからも、紙を通じてお客様の快適な毎日をお手伝いし、従業員を含む自社に関わる全ての人々を笑顔にする製紙会社を目指して事業活動に取り組んで参ります。

代表取締役社⻑ 河野 晃久

河野 晃久

Profile

会社名

河野製紙株式会社

所在地

本社⼯場:〒780-0934 ⾼知県⾼知市下島町71

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TEL / 088-822-3107

FAX / 088-822-3110

埼⽟⼯場:〒349-0135 埼⽟県蓮⽥市井沼381

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TEL / 048-766-9211

FAX / 048-766-9612

代表者

代表取締役社⻑ 河野晃久

資本⾦

1,500万円

取引銀⾏

伊予銀⾏、⽇本政策⾦融公庫、商⼯中⾦

事業内容

ティシュペーパー・トイレットペーパー・ポケットティシュ・保湿ペーパーの製造、販売

従業員数

約140名(令和4年現在)

主要取引先

株式会社エス・ブイ・デー / アズフィット株式会社 / アスト株式会社 / 株式会社あらた / 株式会社ユアサ など

主要仕⼊先

丸紅株式会社 / 王⼦コンテナー株式会社 / 株式会社トーモク / 四国ダンボール株式会社 / サヌキ印刷株式会社 / 株式会社マルカワ など

⽣産品⽬

ティシュペーパー / トイレットペーパー / ポケットティシュ / 保湿ペーパー 他

History

  • 927土佐和紙の起源

    土佐における製紙の最古の記録は、醍醐天皇の延長5年(927年)に完成した「延喜式」の中にみられます。製紙原料である楮(こうぞ)、雁皮(がんぴ)などの育成に適している気候風土のため、製紙業は着実に発展し、農家の重要な副業となっていきました。

  • 1600土佐藩御用紙

    慶長5年(1600年)11月、山内一豊が土佐国主として、浦戸城に入りました。まもなく土佐藩は、成山、伊野の両村に御用紙漉きを置いて、製紙業を土佐の産業の中心にする制作を進めていきました。

  • 1860明治維新前後

    坂本龍馬が土佐藩を脱藩する2年前の万延元年(1860年)、土佐和紙業界の恩人と呼ばれている吉井氏が大型簀桁(すけた)を考案しました。これにより、紙の生産量が飛躍的に増大し、土佐藩の財政が大きく改善しました。

  • 1868明治の土佐和紙

    時代は明治になり、富国強兵政策の元、新政府と何らかの関係を持つ特権資本などの新規の起業家によって、全国各地で洋紙の大量生産が始められました。従来からある小規模な土佐の地場産業は、洋紙業界と競合しないために、機械漉き和紙という高級品を作る産業へ発展して行きました。

  • 1892河野製紙の創業

    明治25年(1892年)、河野栄三郎が伊野村にて製紙業を始めました。大正10年(1921年)のころには、二代目・冨助が庄屋橋近くの菊楽で職工19人を雇い、河野製紙工業という小規模なマニュファクチュアを経営していました。

  • 1934昭和初期の発展

    震災恐慌、世界恐慌と、長引く不況に耐えてきた河野製紙所は、昭和9年(1934年)4月、新工場を建設して抄紙機を導入し、機械化工場としてスタートしました。昭和12年(1937年)頃、一菱商店社長・小松徳太郎氏の話にヒントを得て、楮の繊維を短く処理してから機械漉きした新製品を開発しました。手漉きに比肩する紙質なのに安価であったため、全国で評判となりました。栄三郎の創業より45年を経て、ようやく飛躍のときを迎えました。そして、この新商品の包装紙には、小松徳太郎氏と河野冨助の頭文字「T・K」を菱で囲んだ商標が押されていて、それ以来、一菱商店と河野製紙との信頼関係は現在に至っています。

  • 1939第二次世界大戦

    戦況が悪化してきている戦争末期、政府から製紙工場を統合するよう命令されました。そこで、河野製紙所と塩田製紙所と三浦商工の工場部門を加えて、高知製紙株式会社が設立されました。陸軍及び海軍の指定工場となり、軍関係の製品を生産していました。

  • 1948戦後の混乱

    敗戦によって、パルプ資材の60%を保有していた樺太をパルプ工場ごと失い、パルプを入手できるかどうかが経営の明暗を分けるようになりました。昭和23年(1948年)、高知製紙株式会社は、パルプ工場の建設を開始しました。2億円事業であるパルプ工場建設の完成間近の昭和25年(1950年)1月、折からのインフレや戦後経済の混乱の中、資金調達に狂いが生じ、高知製紙株式会社は倒産してしまいました。

  • 1955更なる挫折

    河野冨助、楠一親子は、家を残してすべてを失いました。楠一は、金星工業・四国銀行の助けを借りて、金星製紙の設立に参画しました。しかし、昭和30年(1955年)2月、楠一は役員を解任されてしまいました。

    再び
    河野製紙所の
    出発

    昭和30年(1955年)6月、古い工場を買い取り、楠一自らが工事を行い、同8月にようやく試運転ができました。しかし、業績は芳しくなく、家を売って資金を調達しました。そのころ、楠一は富士紙業の熊野社長の助言で、高級家庭紙の新製品の研究開発を始めました。当時、紙を柔らかくするためのクレープ(しわ加工)は、厚目の紙にしか施すことができませんでした。楠一は、薄い京花紙にクレープをかけるために、試行錯誤を行いました。昭和33年(1958年)、セミクレープ京花紙「鈴」を開発しました。

  • 1961河野製紙
    株式会社の設立

    セミクレープ京花紙「鈴」はたちまち評判となって、高度成長にも支えられ、順調に業績を伸ばしました。昭和36年(1961年)5月31日、資本金200万円の河野製紙株式会社を設立し、楠一が社長に就任しました。それまで秘密にしてきた製造ノウハウを公開し、高知県の「製紙王国」の復活に向けてスタートしました。そして、昭和42年(1967年)頃には、高知県は家庭紙において「製紙王国」への復活を果たしました。

  • 1965ティシュ
    ペーパーの登場

    昭和38年(1963年)山陽スコットが、翌39年(1964年)には十条キンバリーが操業を開始し、ティシュペーパーが登場しました。昭和40年(1965年)、河野製紙は100ダブルティシュ「マナー」を発売しましたが、全く売れずに在庫の山ができました。当時はまだ、ティシュが消費者に認知されていない時代でした。そこで、楠一の息子・矩久は、ポリ袋入りティシュや、金融業界のノベルティ商品等を生産することに活路を見出しました。

  • 1968埼玉工場建設

    昭和43年(1968年)11月、埼玉工場が竣工しました。大消費地に近い場所に工場を持つことで、価格競争力を得るためです。昭和46年(1971年)、当時公害問題が大きく取り扱われるようになったのを受けて、埼玉工場2号抄紙機の設備投資計画を取りやめ、いち早く公害対策を行いました。

  • 1972オイルショック

    昭和47年(1972年)4月、楠一は皇居にて黄綬褒章を授章しました。昭和48年(1973年)、オイルショックが起こり、狂乱物価と言われるインフレのために原料費が高騰していました。11月には、トイレットペーパーが不足するという嘘や報道が増幅されて、トイレットペーパーを買い求めるパニックが起こりました。翌49年(1974年)には、買い溜めされた反動で、大幅に売り上げが落ち込みました。昭和47年(1972年)にすでに、京花紙の生産量は、ティシュの生産量に逆転されていましたが、パニック後は完全にティシュの時代になりました。

  • 1975試練

    河野楠一の死去に伴い、矩久が社長に就任しました。就任早々の昭和50年(1975年)8月、台風による集中豪雨で浸水し、倉庫の在庫が全滅しました。翌51年(1976年)、再び集中豪雨が遅い、再び倉庫の在庫が全滅しました。そのようなときに企画された「アヴォンリーティシュ」は好調で、肝心なときに河野製紙を支えました。昭和52年(1977年)3月、商品企画、ノベルティ商品の開発を行う子会社、株式会社グリーンゲイブルスを設立しました。大手メーカーとの熾烈な競争にさらされる中、一歩一歩進んでいきました。

  • 1992創業100周年

    平成4年(1992年)、河野製紙は初代栄三郎の手漉き開業(1892年)以来、創業100周年を迎えました。明治以降の高知県製紙業界の栄光と挫折は、常に地域的なハンディキャップと、中央の特権的大資本とを意識した戦いの結果でした。戦いの方向を、大資本とも大量生産とも無関係な、特殊紙の開発に向けて熱意を注ぐことで、成功をおさめてきました。

  • 1993保湿ティシュ
    の開発

    開発のきっかけは、河野製紙4代目・現会長の矩久自身の鼻炎でした。「肌の弱い方、頻繁に鼻をかむ方に安心して使えるやさしい紙はできないか」と谷口健二研究員に相談し、2年がかりでつくりあげたものです。この技術は特許として認められています。平成5年(1993年)に発売して以来、おかげさまで毎年順調に売り上げを伸ばし、「保湿ティシュの河野製紙」としてみなさまに親しまれて、現在に至っています。

  • 2011藍綬褒章の受章

    平成23年(2011年)、会長の矩久が「公衆の利益を興し成績著明である者又は公同の事務に尽力した者」に与えられる「藍綬褒章」を受章しました。

  • 2016保湿ペーパーが
    高知県地場
    産業大賞
    30周年記念賞
    受賞

    高知県地場産業大賞を受賞した商品や活動の中から、斬新なアイデアで注目を集め、今でもその製品を発展させ売上を伸ばし、地域に貢献している製品を生み出した企業や地域として脚光を浴びたのちも活動を発展させ地域に貢献している活動を顕彰する「30周年記念賞」を受賞しました。

  • 2018地域未来
    牽引企業に選定

    ”地域内外の取引実態や雇用・売上高を勘案し、地域経済への影響力が大きく、成長性が見込まれるとともに、地域経済のバリューチェーンの中心的な担い手、および担い手候補である企業”と、経済産業省より認められた「地域未来牽引企業」に選定されました。

  • 2020FSC®
    CoC認証を取得

    世界の森林の責任ある管理を支え、森を大切にすることにつながるFSC®/CoC認証を取得しました。

  • 2021社長交代・
    会長就任

    矩久が会長に就任、河野製紙5代目社長として晃久が就任しました。

明治25年(1892年)

初代 河野栄三郎、⼿漉き業開所 (創業)

昭和30年(1955年)8⽉

河野製紙所 設⽴

昭和38年(1963年)6⽉

中⼩企業合理化モデル⼯場指定

昭和43年(1968年)11⽉

埼⽟⼯場竣⼯

昭和52年(1977年)3⽉

ノベルティ商品販社として株式会社グリーンゲイブルスを設⽴

昭和61年(1986年)11⽉

埼⽟⼯場3号抄紙機稼動

昭和63年(1988年)6⽉

埼⽟⼯場JIS表⽰許可⼯場に指定

平成3年(1991年)12⽉

保湿ペーパー技術の特許出願

平成4年(1992年)5⽉

100周年記念式典

平成5年(1993年)1⽉

⽇本初の保湿ペーパーを発売

平成7年(1995年)9⽉

⽶国における保湿ペーパー技術の特許登録

平成8年(1996年)2⽉

保湿ペーパーが第11回⾼知県地場産業⼤賞を受賞

平成11年(1999年)10⽉

⽇本における保湿ペーパー技術の特許登録

平成19年(2007年)4⽉

ゲル状保湿成分の特許取得

平成22年(2010年)1⽉

形状記憶エンボスの特許取得

平成22年(2010年)1⽉

保湿不織布の特許取得

平成23年(2011年)11⽉

藍綬褒章受章

平成28年(2016年)3⽉

保湿ペーパーが⾼知県地場産業⼤賞 30周年記念賞受賞

平成30年(2018年)1⽉

地域未来牽引企業に選定

令和2年(2020年)1⽉

FSC®/CoC認証を取得

令和3年(2021年)6⽉

河野晃久が代表取締役社⻑に就任 河野矩久が取締役会⻑に就任

河野製紙の歴史をつくってきた
オリジナルキャラクター
アヴォンリー・キース

アヴォンリー・キース

アヴォンリー・キースは、河野製紙が世界で初めて開発した保湿ペーパーの商品ブランド名です。

小説「赤毛のアン」に登場するカナダの地名「アヴォンリー」に、
スコットランドの地名であり語源に北風の意味を持つとされる「キース」を組み合わせて名付けられました。

発売以来、河野製紙の看板商品として皆様に永らく愛していただきながら、
品質向上やパッケージ変更を重ね、現在で5代目を迎えます。